コラム サクラみらいポケット

安心と安全 - 樫本

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コロナが国内で広がり始めたころ、スーパーやドラッグストアに人々が列をなしてトイレットペーパーを買い占めるという現象が起きた。

 

「マスクとトイレットペーパーの原料は同じ」

「新型肺炎の影響でトイレットペーパーが今後無くなる」

と誰かがデマ投稿し、それを見た人がデマを拡散したことで店頭に行列ができた。

 

ただ、行列に並んだ人がみんなデマを信じたのかというとそうではない。

実はデマだと知っている人がほとんだだった。

じゃあなぜ並んだのか?

 

デマだとわかっていても、自分の家のトイレットペーパーの買い置きが無かったら心配になるし、たまたま立ちよったスーパーに在庫があったら、無くなる前に買っておこうとなる。

普通は一度にまとめて購入すれば次から買うのをやめるけれど、中には店をはしごして、次から次へとトイレットペーパーを買い込む人も出ている。

トイレットペーパーを買い込むことで自分が安心したいということだろう。

 

「人は安全ではなく安心を求めるのか?」

 

実は「安全」と「安心」は別物である。

安全というのは科学的な話で、安心というのは心理的な話。

 

科学的に「リスクはこの程度で安全」と言われてもそれだけでは動かず、

エビデンスがあっても結局安全ではなく、安心で動くことが多い。

 

例えば

「あなたは600万発に1発だけ実弾が入った引き金を一回引く毎に1000円もらえるロシアンルーレットがありますが、やりますか?」

 

ほぼ全員が「やらない」と答えるだろう。

確立的にはほとんどゼロに等しく、道路を歩いていてはねられ死亡する確率(10万分の3)よりもはるかに低い。

 

なぜやらないのか?

 

それはリスクが見えないからだ。

 

暴走車が歩道に突っ込んでくるのは見えるけれども、ロシアンルーレットはリスクが見えない。

人は確率的な安全ではなく、自分の不安(リスクが物理的に見えない)を優先して行動する。

 

 

ではこの図の4つのバランスで問題なのは何か?

「危険」であるにもかかわらず、人々が心理的に「安心」だと思っているもの

「安心・危険」

 

こうしたものは世の中にどの位あるのだろうか?

 

食べ物について言えば、自宅や親戚、友人・知人が作ったものについては、食品自体に「気持ち」や「配慮」という要素が加わるため、判断にバイアスがかかる。

誰々が作ったから「安心」、でもよく考えれば決して「安全」ではないというものもある。

親や配偶者が作ろうと「危険」なものは「危険」である…

 

仕事でも同じことが言える。

あの人が機械を修理したから安心、あの人が品質を見たから安心…

対策は実施したから安心…

 

コロナなど普段とは異なるストレスのかかる状態に陥った時に安心に偏った判断を

してしまい、危険におちいってしまう。

 

自分の経験上、追い詰められた状態になればなるほど、いつの間にか安心を求めてしまっていたことは多々ある。

 

自分のそういった弱みを理解し、悪い影響を与えないように対応しなければならないと思いながら行動している。

 

管理者として、根拠ある判断により、安全に導き、それが結果的に部下に安心を与えることが出来ればいいなあと思っている。

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