有限会社高村工業所
営業部では協力会社の皆様へインタビューをしてまいりました。第一回目は神奈川県大和市にある有限会社高村工業所様です。
さくらと同じ、神奈川県めっき工業組合に所属しており、さくらからはニッケル亜鉛(吊るし)やクロームめっきなどの処理でご協力いただいております。

岡
本日はお忙しい中、お時間頂きありがとうございます。
岡
早速ですが、高村工業所さんの御社のご紹介をお願い致します。
高村社長
はい、有限会社高村工業所と申します。今年で創業54年目で、丁度僕の10こ年上になります。
高村社長
組織は、品証、総務、製造、営業(配送)、保全部と分かれていましてそれぞれを管理する部長がおります。
岡
創業54年ですか、歴史がありますね。
高村社長
高村工業所の歴史をお話させて頂くと、あまり公にはしていないんですが、会社の前身は僕の祖父がめっき屋をやっていたんですよ。
吉成・岡
え!?そうなんですか?それは知らなかったです。高村社長は3代目ということですか?
高村社長
実は会社は、違って祖父の会社で僕の父も働いていたんですが、ケンカ別れしてしまって(笑)、、そして独立して高村工業所を創業したんですよ。祖父の会社ももう今は無くて「大和防錆(やまとぼうせい)」という名の会社でした。
吉成
場所はどちらにあったんですか?
高村社長
元々は東京の大森にありました。その後、神奈川県大和市に移動したんです。うちの祖父も少し”山師”的なところがあって、儲かればプレス加工でも何でもやっていたらしいんですよ。(笑)なので大和防錆って名前は「めっき」をやっていた時の会社の名前ですね。その前の会社は、僕も名前は知らないんです。そして、同じ大和市にいる時に、僕の父が高村工業所を創業しました。近くで独立した形ですね。ちなみに東京小平市にある、「高砂電鍍工業」さんは僕の親戚で、祖父の兄弟が創業した会社になります。今現在もめっき事業やられてますね。たまのお付き合いはありますよ。
吉成
えー!?初めて聞きました。今日は初めて聞く情報が多いですね(笑)
高村社長
日本カニゼンさんと近い系統の仕事をしています。(多種の無電解ニッケル)
高村社長
ちなみに社長の名前は「高村」さんです。
岡
私も全部初めて聞く話です(笑)

岡
高村社長は先代から社長を引き継がれたのは、いつ頃でしょうか?
高村社長
丁度30歳の時で、14年前ぐらいですね。
吉成
えぇ意外とまだそのぐらいなんですね。何かもう何十年も私たちと一緒にやっているような感じもしますけどね。(笑)
高村社長
そうですよね(笑)
岡
高村社長は先代の時代に最初入社した当時はやはり一作業員として、現場から経験を積まれたんでしょうか?
高村社長
はい、最初はずっと現場でしたね。手動のバレルラインに入って3年ぐらいはやっていましたね。
高村社長
なので、殆ど「管理」ということはやっていなかったですね。
高村社長
その頃から、機械設備は自動機を持っていたんですけど、めっき全体の流れを覚えるために父からの教えで手動ラインから始めました。脱脂工程はこうなると不良が出やすいですとか、作業しながらそんなことを教わっていました。
高村社長
‥‥‥‥ただ、正直僕は当時会社を継ぐ気もなかったんで。社長になるステップのために学ぶというよりは「人工(にんく)※1」としてやっていたんで、ほんと積上げ教育を受けていたということではないんです。「人が足りないからここやってろ」みたいな感じでやっていましたから。
岡
当時継ぐ気がなかったというのは、高村社長に誰かご兄弟とかがいらっしゃっての事、ということでしょうか?
高村社長
いえ、僕に兄弟はいないんですが、私が入社した時のすぐに上の人達の年齢層が、僕の20歳ぐらい上だったんで既に40歳過ぎの人達が一番若い人達だったんですね。あとは皆50~60歳代の高齢の作業員の人達とか、父の兄弟(私の叔父達)達が専務や工場長、営業などをやっていましたから。父が4人兄弟だったので。
岡
なるほど。まだ当時の高村社長もかなりお若いですし。父の兄弟が多くいる中、社長を継ぐとかいうことにそんなに意識が向かなかったのかもしれないですね。他にやりたいことがあったということもありますか?
高村社長
僕は高校を卒業して、一年間海外で暮らしていてカナダにいました。
吉成
えー!?かっこいい!でも何でですか?
高村社長
僕、本当は「農業」をやりたかったんですよ。
岡
カナダでですか?
高村社長
いえ、日本で。北海道でやりたかったんです。今で言う「花畑牧場」ってあるじゃないですか?田中義剛さんのやってる。あのビジネスモデルをやりたかったんです。ああいうその、何て言うんですかね、観光とか自社製品を絡めた農業っていうんですかね。要するに儲かる農業をやりたかったんですね。
高村社長
僕は学もなく、スポーツばかりやっていたんでスポーツに飽きてしまって、大学からのスポーツ推薦をお断りをして、、ただ親に顔が向けられなくなって。。散々好きにやらせてもらってたのに。逃げるように海外に一年間行ったのが実の話ですね。ファームステイだったので、住込みで農業を手伝うんで家賃も食費も払う事は無く、春の種まきの時期からスタートして、収穫の時期までじっくり一年ですね。酪農も少しやりました。お世話になった町が「日本人初めて見た」って言われるみたいな、すごい田舎でしたね。
岡
90年代ですね当時。
高村社長
まだ日本は携帯がない時代で、ポケベルでした。PHSもまだなかったですね。ただ、一年のファームステイを終えて日本に帰ってきた時、友達が空港に迎えにきてくれてたんですけど、帰りの電車でPHS持ってって、ポケベルしか知らない僕は「何それ!?」ってビックリしたのを覚えてます(笑)うちの親父、車に電話(固定)付いてるって威張っていたのに(笑)
吉成・岡
(笑)
岡
そのファームステイから戻ってきた後、父の会社に入社されたんですね?
高村社長
そうです。ただ海外に行っていただけなんで、日本に戻ったところで就職活動も普通にできると思ってなく、でも食べていかなきゃいけないしっていう所で高村工業所へ入社させてもらうことになりました。先程言いましたように人工としてですけどね。
吉成
以前、確か高村社長がガソリンスタンドでも働いてたとか聞いてたんですけど、、
高村社長
それは会社の仕事が終わってからですね。父が全然給料くれなかったので(笑)当時は一人暮らしもしたかったし、身の丈に合わないいい車に乗っていい女を乗せたいっていう感覚の時代でしたから(笑)それには全然給料が足りなかったですね。あと、その頃は今のように遅い時間までラインが稼働してなかったので、働くことができてましたね。そのバイト先のガソリンスタンドで知り合ったのが、うちの現工場長の滝澤です。元々はバイトの後輩だったんです。で、高村工業所で一緒に働くことになって。
岡
いつ頃から、ラインを任されるようになったんでしょうか?何かきっかけはありましたか?
高村社長
手動ラインから数年が経って、そろそろ自動ラインの作業を覚えるために、自動ラインの職人さんで当時のエース級の方だったんですけど、その人の下に僕と滝澤が付いて色々教えてもらい始めたところで、数か月後突然心臓発作で亡くなってしまって。。。で、僕らしかその後やる人間がいないわけですよ。そのタイミングですね。

高村社長
いよいよ、”腰掛けとか言ってられなくなって、当時の専務と工場長に相談して、恥ずかしながらジャスコさん(薬品メーカー)にお願いして、申し訳ないですけど一からめっきのこと教えてくださいって言って色々教わりました。この頃にやっと工程表というものを作り始めました。当時の職人さんは「液を手で触ってぬるぬるしたら苛性ソーダ入れろ」とか言ってましたから、それやるの嫌だなぁって思って(笑)
岡
それ、なんか似た話をさくらGSでも聞いたことあります。
吉成
おれなんか昔「舐めろ」って言われたから。
吉成・岡
(笑)
吉成
でも丁度その頃って六価から三価に切り替わろうとしてた時代ですよね。工程表を作り始めるタイミングも正に良いタイミングだったんじゃないですか?
高村社長
そうですね。まさに六価から三価への切り替えの時代でしたね。でもうちの大事件は「三価」だったんですね。
岡
と言いますと?
高村社長
お客さんからは「三価に切り替えてほしい」っていう要望が高まってきてた時だったんですけど、当時は父親(社長)をはじめ、専務なんかもバリバリ働いていて、僕たちなんかまだ何の口出しもできない立場の時、「三価なんかやらない」って言って。。薬剤メーカーからは「六価は本当になくなっていきますよ!?変えるなら今じゃないですか?」という強いプッシュが何度もあり、僕たちにとってはやっと覚えた六価だったんですけど、引き続き三価を勉強することになりました。
岡
今の世の中のニーズを思うと当時三価に取り組まれて本当良かったですよね。高村社長はめっきの組合なども積極的に参加されている印象があるんですが、以前からそうだったんでしょうか?
高村社長
めっき組合の青年部に入ったのもその頃で、三価切り替えの時期に色々と意見交換させて貰っていましたね。まだまだ僕自身も若くて、会社にも自分の友達なんかもバイトとして呼んでたりしてました。さっき言ってました”腰掛け”じゃないですけど、まだそこまで会社を継ぐとか意識はなかったんですけど、いよいよ先代が「もしかしたらおれ社長続けられないかもしれない」って話があって。バイトのメンバーとか巻き込んで会社に呼んじゃってる手前、自分だけ「抜けた」って訳にはいかないじゃないですか。丁度僕が結婚もして子供もできた頃で、この頃から少しずつ経営を意識するようになった感じですね。
岡
色々なタイミングも重なって、徐々に経営を意識されるようになったんですね。社長に就任されてまず何か大きく変わったことは、ありましたか?
高村社長
自分自身の変化というより、僕が社長になって最初にやったことは、まず先代の時代から働いていた従業員を「全員解雇」にさせてもらいました。
吉成・岡
えっ!?どういうことですか?
高村社長
形式上という意味です。先代の時代から働いて頂いてた先輩方なんかは皆、履歴書すらない”口約束”でずっと働いているような状態だったので、ちゃんとした雇用契約を交わすために「再雇用」を前提とした形式上の解雇という意味です。あと、他の意図としては、「後身の育成」に力を入れたかったので、当時のいわゆる役職者の方には皆退いて頂きました。先代は兄弟の中で次男だったのですが、長男の営業部長、弟の専務、さらに下の共同創業者の弟や、各ラインの職長全員です。もちろんちゃんと説明をした上で、待遇・給与などに変更はせず、職長達にはリーダー職を空けて頂き、後身の育成に力を注いで欲しいとお願いしました。
岡
そういうことだったんですね。びっくりしました。社長になるまであまり経営を意識していないとのことでしたけど、それだけの改革をするということは、以前から高村社長の中に構想があったという風に感じますね。
高村社長
僕はまず今の会社を大きく変えるためには人事権を持たないとと思っていたんですね。社長になったタイミングで人事権も得る形になったので、そういう形になりました。
岡
話変わりまして、私達さくらGSとの出会いのきっかけのお話を伺えますか?
高村社長
僕はさくらさんとの出会いのきっかけ(入口は)2つあると思っています。振返ってみれば後付けになりますけど、1つは吉成さんと「幼稚園のお父様繋がり”パパ友達”」だったと思っています。もう一つは、青年部の組合で北海道に行く機会があったんですけど、その時真木(洋平)社長と二人でお話をするタイミングがあって、当時の僕から見た真木社長の印象は、青年部にいる他のめっき屋さんの社長さんとは、ちょっと毛色の違う感じのする社長さんでしたね。
岡
どのような感じですか?
高村社長
同じ匂いのするところもあるんですが、「ただのめっき屋さんの社長」というよりは、「実業家」というイメージでしょうか。きちんと理論に裏打ちされた手法を考えられるイメージですかね。本来経営者ってそういうものだとも思いますけどね。
高村社長
今でこそ「労働生産性」とか「粗利」とかをどう上げていくかみたいな話を飲みながらですけど、話していたのを覚えています。
高村社長
言っても当時僕の感覚では、めっき屋さんってどちらかというと「会社」というより「工場」っていう感覚が強くて、納期を頑張ってれば後から数字が連いてくるみたいな感覚でいましたから、刺激を受けましたね。
岡
なるほど。さくらGSの会社としての印象はどうでしょうか?
高村社長
今現在のように深くお付き合いをさせて頂くようになった中でも、やはり当時思ったイメージのままで、やっぱりさくらさんは同じ同業他社という大きな枠の中でも違うなと思います。これだけの規模の仕事量を集めるというか、ご依頼頂けるっていうのはやっぱりそういった視点で動かないとっていうのは感じますね。特に圧倒的に僕達とは「営業力」が違うと感じます。
吉成
そうですか。僕は当時同じ頃、今は閉鎖した綱島工場で工場長を任されていたんですけど、工場は6ライン稼働していて綱島工場だけで月商が6千万円あったような忙しい時で。あの頃からさくらは「同業他社との関りをあまりもたない」スタンスだったんですけれど、”表も知らなきゃ”というスタンスに変わってきたころでした。自分より上の立場の人が工場では居なかったので好きにやらせてもらってたんですが、当時の工場長は「営業力」も求められていました。でも今と違って当時の営業は僕からすれば”超簡単”だったんです。何故かというと当時のめっき屋は、何かめっきに問題があっても何かにつけ「素材のせい」にしたりして、誠心誠意、不具合やお客さんに向き合わないから、そういった所を正すだけですぐにこちらに話が来てましたね。そんな中、高村工業所さんと当時競合している神奈川県内のとあるお客さんがあったんですが、そこの社長の話しぶりから当時の高村社長の対応を耳にする機会があって、実際にそこからはさくらに仕事を引っ張れなかったんです。とても脅威に感じたのを覚えています。
高村社長
実は僕も営業をしながら全く同じことを感じていました。僕は当時、うちの会社はお客さんの”小間使い”になるって決めたんです。実際に外に出るようになって自分たちのいるめっき業界って「何て偉そうな業界なんだ」って思いましたね。ほぼ全てのお客さんが総じて「めっき屋が言うこと聞かない」って口をそろえて言っていたんですよね。
岡
それでも、当時はどの会社にも黙ってても仕事があったという時代背景もあるんでしょうか。相対的に規模の大きな同業他社と比べ営業力に差があると感じる中、高村工業所さんとしての戦略というか戦い方はどのように考えられてますか?
高村社長
まずコストで真正面から勝負すると勝てるわけがないので、今は納期と品質に比重を置いてます。「圧倒的な納期とそこそこの品質」ですね。お客さんの規模もさくらさんが取引しているような大きな所ではなく、〇〇製作所というような町の加工屋さんに向けて「毎日配車行けます」とか提案するだけで、結構ニーズはあるんです。納期も圧倒的な速さで対応できることで、お客さんの見えないコストの削減に貢献してると思うんですね。納期遅延による未納なんか発生すると挽回するコストって実は馬鹿にならないと思いますね。長い目で見て頂いて、そういったお客様のリスクを排除できるのであれば僕たちのめっき代も決して高くはないですよという提案が多いですね。
岡
なるほど、差別化戦略ですね。私達も高村工業所さんには、日頃短納期でめっき処理して頂いてます。いつもありがとうございます。
岡
今は当時と比べて従業員規模も大きくなりましたか?高村さんの現場を覗かせて頂くと結構若い方が多い印象も受けます。
高村社長
私が社長になる前は17名ぐらいの規模でしたが、今はアルバイトも入れて46名程になってます。現場には女子高生二人と女子大生がいますよ。僕の娘なんですけど、やっぱり若い男の子が優しくなりますよね、職場に女性がいると。
岡
そうなんですね。今は現場仕事だから女性がいないとも限らないですし、女性や若い世代ならではの視点なんかもとても貴重ですよね。
岡
最後になりますが、今後何か新しいこととか考えてらっしゃることとかありますか?もうすぐ東名高速の綾瀬に「スマートインター」が開通したりするみたいですけど、どこか商圏を延ばしたりとか?
高村社長
そうですね、西方面へのアクセスが良くなるので、少し静岡の清水あたりまで行ってみてちょっと違うエリアに”ちょっかい”だすのも面白いかもしれませんね。違うエリアに行くと見積もりの内容も見たことないような超大量ロットでビックリすることもありますよ。
吉成
分かります。もう浜松辺りまで行けば正に見たことないような巨大ロットの話とかあったりしますよね。ただとんでもない競合がひしめいてますけどね。
岡
今日は大変お忙しい中、貴重なお時間頂きありがとうございました。これからも宜しくお願い致します。
高村社長
こちらこそありがとうございました。今後共、宜しくお願い致します。
